【書評:裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書) 上間陽子】 [いま、ここ、わたし]
4月に買ったまま、読まずにいた本。
厳密には読めずに、かも知れないが、自分でもよくわからない。
先日、岸政彦さんの小説「ビニール傘」を買って読み、その流れで当然の様にこの本を読んだ。
自分の中では、この二冊は地続きになっていて「裸足で逃げる」への入り口としての「ビニール傘」だったんだろう。
「ビニール傘」を気になっても買えずにいたのは、読んでしまうと必然的に「裸足で逃げる」を読むことになるからだったのかもしれない。
そんな、自分でもややこしい迂回をしながら読んだこの本で、想像どおり圧倒され、想像を超えてしんどい思いをした。
なんども泣いてしまう。
さっきも読み返して泣いてしまった。
書評なんていつもきちんと書けないけど、今回はなおさら書けないと思った。
でも、読んだ、ということを伝える必要があるように感じて、今、キーボードを叩いている。
誰に届くかも分からず、届けたいかも分からず、声高にありきたりの言葉で叫びたいわけでもなく、黙っていたいわけでもない。
でも、焦ってはいけない。
他人がどうこうより前に、まずは自分が自分の感じを受け入れ、整え、支えようとつとめる。
自分がある。他人もある。それを混ぜない。悲しくても辛くても混ぜてはいけない。
今の自分はそれぐらいしかできない。
厳密には読めずに、かも知れないが、自分でもよくわからない。
先日、岸政彦さんの小説「ビニール傘」を買って読み、その流れで当然の様にこの本を読んだ。
自分の中では、この二冊は地続きになっていて「裸足で逃げる」への入り口としての「ビニール傘」だったんだろう。
「ビニール傘」を気になっても買えずにいたのは、読んでしまうと必然的に「裸足で逃げる」を読むことになるからだったのかもしれない。
そんな、自分でもややこしい迂回をしながら読んだこの本で、想像どおり圧倒され、想像を超えてしんどい思いをした。
なんども泣いてしまう。
さっきも読み返して泣いてしまった。
書評なんていつもきちんと書けないけど、今回はなおさら書けないと思った。
でも、読んだ、ということを伝える必要があるように感じて、今、キーボードを叩いている。
誰に届くかも分からず、届けたいかも分からず、声高にありきたりの言葉で叫びたいわけでもなく、黙っていたいわけでもない。
でも、焦ってはいけない。
他人がどうこうより前に、まずは自分が自分の感じを受け入れ、整え、支えようとつとめる。
自分がある。他人もある。それを混ぜない。悲しくても辛くても混ぜてはいけない。
今の自分はそれぐらいしかできない。
【書評:青空に飛ぶ 鴻上尚史】 [いま、ここ、わたし]
読み始めて、あまりに中学生の主人公へのいじめの描写がキツて、辛くて、最後まで読めそうにない、と思った。
ただ、もう一人の主人公である特攻隊の生き残りの人の話が始まり、なんとか読み進めているうちに、気がついたら最後まで読み切っていた。
キツイのは最後まで薄れなくて、いや、どんどん濃くすらなっていって、読み終わった今も、胃と心臓が痛くてたまらない。
でも、このキツさこそが、そのまま、この小説なんだと思う。
ほとんど救いはない。キツイ現実しかない。それでも生き延びた人は存在する。
最後の方にある「ぼくは弱い。そこから始めようと思った。」は、このキツイ現実を通った絶望の先にしかありえない言葉で、それは希望というより、認識であって、自分で考えることであって、それ以上の意味はないと思う。
でも、もしかしたら、これすら安易な希望に映るかもしれない、という、絶望も同時に感じてしまって、そうなら自分は何が言えるんだろう、この現実を生きる為に自分なら何ができるんだろうと、考えてしまった。
★ ★ ★
鴻上さんの本をよく読む人には、この小説は、いままで鴻上さんが作品を通して一貫して伝えてきたことが、別な形で繰り返し述べられていることに気づくと思います。
それを、やや「またか」と感じる自分がいて、もやもやしながら、この文章を書いているのですが、でも、もしかしたら、その繰り返しこそ、わかった気にさせない、消費することじゃない、お前は本当に考えているか?というメッセージなのかも知れないと、今思い至りました。
なんというか、そういうシャープじゃないところが、鴻上さんが好きな理由なのかも知れません。
ただ、もう一人の主人公である特攻隊の生き残りの人の話が始まり、なんとか読み進めているうちに、気がついたら最後まで読み切っていた。
キツイのは最後まで薄れなくて、いや、どんどん濃くすらなっていって、読み終わった今も、胃と心臓が痛くてたまらない。
でも、このキツさこそが、そのまま、この小説なんだと思う。
ほとんど救いはない。キツイ現実しかない。それでも生き延びた人は存在する。
最後の方にある「ぼくは弱い。そこから始めようと思った。」は、このキツイ現実を通った絶望の先にしかありえない言葉で、それは希望というより、認識であって、自分で考えることであって、それ以上の意味はないと思う。
でも、もしかしたら、これすら安易な希望に映るかもしれない、という、絶望も同時に感じてしまって、そうなら自分は何が言えるんだろう、この現実を生きる為に自分なら何ができるんだろうと、考えてしまった。
★ ★ ★
鴻上さんの本をよく読む人には、この小説は、いままで鴻上さんが作品を通して一貫して伝えてきたことが、別な形で繰り返し述べられていることに気づくと思います。
それを、やや「またか」と感じる自分がいて、もやもやしながら、この文章を書いているのですが、でも、もしかしたら、その繰り返しこそ、わかった気にさせない、消費することじゃない、お前は本当に考えているか?というメッセージなのかも知れないと、今思い至りました。
なんというか、そういうシャープじゃないところが、鴻上さんが好きな理由なのかも知れません。