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兄のいた場所 [いま、ここ、わたし]

明日から、故郷の紋別に行ってきます。

去年の11月11日に突然亡くなった兄の一周忌法要と納骨。

兄が死んだことは、今までこのブログに書くことはできませんでした。

直後は辛かったから書けなかったし、その後は、あえて文章にしてまで書きたいことがなかったからです。

でも、法事に行く前の晩だし、自分の為にも少し書き残しておくのもいいかな、と思って書いてます。

一歳しか違わない、年子の兄弟。

仲はあまり良くありませんでした。

中校生ぐらいから意見が全然合わなくなって、個人的なことを兄に相談したことはほとんどなかったです。

何を話しても意見を否定されるだけに感じてました。

周りの友達が行かない離れた高校への進学、大学には行かず札幌の専門学校へ行くこと、そして東京に出てくること。

兄だけではなく、親へもほとんど相談しない様になっていました。

親は「好きにすればいい」と言って放っておいてくれましたが、兄は何も相談しないで勝手に決める私に不満を持っていて、「お前は家族に何も相談しない」と言っていました。

でも、そうやって生きていくしかなかったんです。

自分としては必死だったんです。

今思うと、それを説明できるほど当時の自分も自分のことが分かっていなかったこともありますが、分かってくれないだろうと諦めていたこともあって、なおさら話すことはありませんでした。

25年前、父親が53歳で他界するまで、年末年始やお盆にもほとんど実家に戻ることはありませんでした。

仕事が忙しかったこともありますが、ひとりで生きていくと決めていたからです。

父が死んだ後、実家に帰って兄に会う回数は増えましたが、関係はよくならず、2~3日も一緒にいれば、何かしら言い争いをしてた様に思います。

★ ★ ★

このブログに書いてしまいたいけど、今まで書けなかったことが3つあります。

1つは今書いてる兄の死のこと。

もう一つは、2016年の結婚と離婚のこと。

残る一つは、今もまだ書けません。

このブログは、親や兄弟、親戚のおじさん、おばさん、従兄弟、会社の元同僚など、意外といろんな人が見ていて、どう思われるか怖いし、変なアドバイスや意見を言われたくないからです。

実は離婚したことは、最後まで兄に直接言うことはできませんでした。

去年は正月、そして父の25回忌と、珍しく2回も兄に会う機会があったのにも関わらず伝えませんでした。

当然、兄は不満、というか、なんで言わないんだろうと思っていたと思います。

逆に私は、無理に言わないでいいや、と決めたことで、とても気楽に兄と過ごすことができて、喧嘩をすることもありませんでした。

母から兄に離婚した事実は伝わっているし、それ以上、兄と話しても、喧嘩することが分かっていたからです。

★ ★ ★

私は、長い間、兄が自分のことを分かってくれないことを不満に感じていました。

でも、離婚したパートーナーとの経験から、兄との関係について、ひとつ気づいたんです。

兄と自分は兄弟とは言え違う人間で分かり合えないことがある。

それなのに、私は兄になんでもわかって欲しいとすごい期待をして生きてきたんだな、と。

それは兄にとって、すごい負担だったのではないだろうか。

また、わからないことが寂しかったり、兄として不甲斐なく感じたりしてきたのではないか。

つまり、兄に問題があったんではなくて、自分の方に問題があったんです。

兄からは、「長男は大変だ」「お前のほうがしっかしりてるし長男みたいだ」とよく聞いていました。

それはとても辛かったのではないか、と思います。

それに気づいて、去年は、兄に会っても無理に自分の話をするのではなく、ただ一緒にご飯を食べて、テレビを見て過ごしたのです。

話し合えれば、それは良いでしょうが、少しでも嫌な気持ちにならず一緒に過ごすことの方が、私には大切でした。

今はそれでいい、ゆっくり時間をかけよう。去年はそう思っていました。

★ ★ ★

そして、兄は死にました。

持病を持っていて入院したりもしてましたが、定期的に検査のために通院をしていたし、心配してなかったなかでの突然死でした。

妹から連絡をもらって、すぐ札幌へ飛行機で向かいました。

紋別から札幌は同じ北海道とはいえ陸路で遠いこともあり、私の方が先に札幌に着き、遺体が安置されている警察署で兄と対面しました。

自分でもびっくりするぐらいいろんな感情が出ました。

声を出して泣き、大声で文句をいい、がんばったねと労い、嫌味をいったりしました。

その晩は、一人ですすきののホテルで寝られず過ごしました。

兄の死の連絡をもらってから家族と会うまで一人でいる間は、いろんな友達、知人に連絡して、話を聞いてもらって、なんとか自分を保ちました。

家族と合流した次の日からは、葬儀や兄の部屋の片付け、役所への手続きに奔走しましたが、すべてがびっくりするほどスムーズに進み、なんのトラブルもありませんでした。

兄から支えてもらっている、見守ってもらえている、そんな風に感じていました。

葬儀の日には、空に大きな虹が出ていました。

まるで私達のこれからを祝福するかのように。

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★ ★ ★

兄は十分に生きました。

50歳で死んだけど、十分に生きたんだと思います。

そして、今、自分は生きている。

兄が死んでから、体の右半分にぽっかり穴が空いた感じがしています。

それは1年たった今も続いている感じで、ものすごく具体的な感覚です。

はじめは壁紙を無理やり剥がされたような痛みがありました。

今、その痛みはありません。

でも、ぽっかり大きな穴が空いているのです。

それは、自分の中で兄がどれほど大きな存在だったのか、ということを示していると思います。

だから今は分かります。

自分は兄を嫌っていると思い込んでいたけど、そうじゃなくて、とても頼りにして、大切に思っていたんだなって。

それだからこそ、分かってほしかったし、分かり合いたかった。

嫌いになってしまうほど兄のことが好きだったんだなと、今は分かります。

★ ★ ★

今、その空いた場所に、色んな人に座ってもらうようになりました。

他人は理解できない。

家族だって理解できないことが沢山ある。

それでも、一緒に過ごすことはできる。

そこから始めることができる。

兄のいた場所にベンチを置いて、目の前で話している人達に座ってもらうこと。

イライラしたり、焦ったり、分かって欲しかったり、分かりたいけどわからなかったり...。

そんな気分の時、そのベンチに座ってもらっているイメージを持つと、不思議と落ち着いて話せるのです。

兄がいた場所は、いまそういう場所になっています。

それは、兄が気づかせてくれた場所であり、兄と自分が二人で作り出した場所です。

兄貴、本当にありがとう。

兄貴の弟でよかった。

私はこれからも精一杯生きていきます。

明日から少し会いに戻るからね。よろしくね。

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再び韓国へ [いま、ここ、わたし]

韓国の友達がやるライブを観に韓国へ行ってきました。

場所はOkcheon(沃川)。

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ライブの次の日にあれこれ案内してくれて、上の写真は川の上からみた夕焼け。

すごいきれいだったなぁ。

今回はソウルでも時間があったので行きたかった美術館や博物館を巡りました。

浅川巧のお墓にも行ってきました。

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浅川巧は大正から昭和初期にかけて、当時、日本に支配されていた朝鮮半島で活動した日本人です。
茨木のり子の「ハングルへの旅」で紹介されてて、気になって本を読んだのがきっかけです。




彼はクリスチャンでもあり、大正の時代を生きた彼の日記を読んでいて「今の時代に自分はどう生きるのかな」としきりに考えました。

お墓参りができてよかった。

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