教会に通ってみるという経験とクリスチャンというマイノリティ [いま、ここ、わたし]
4月から【上馬キリスト教会】という教会の日曜礼拝に通っています。
元々、三浦綾子や遠藤周作の作品が好きだったりして、キリスト教自体には興味があって、20代のころ、教会に行ってみようと、自宅近くの教会の周りをうろうろしたことはあったんです。
でも入れなかった。
何が行われているのか分からないし、自分が入っていいかも分からない。(誰でもどうぞとは書いてあったとは思います)
もともと集団や組織が苦手なこともあり、結局、教会に自分からいくことはありませんでした。
今回、どうやってその壁を超えたのか?
twitterなんです。
上馬キリスト教会はtwitterアカウント【上馬キリスト教会 @kamiumach】を持っていて、そのツイートがゆるくて面白かったので、ここなら行っても大丈夫かな?と思ったんですよね。
自宅から自転車で行ける距離だった、ということもあります。
行ってみて合わなかったら一回でやめようとも思っていました。
でも、結果として、一回、北海道に行った時に休んだだけで、それ以外は毎週通っています。
昔、鴻上尚史が「とりあえずまだ宗教には頼らずにやっていこうと思ってる」的なことをどっかで書いていたことがあって、それにはなんとなくの共感も感じ、自分も宗教に頼るか頼らないか、みたいな考え方をしていた面がありました。
宗教に頼る、っていう表現も手伝ったのか、教会に行くこと自体が自分を捨てることの様に感じていたんだと思います。努力の放棄というか、自己の否定というか、考える事をやめるというか、そういう感じです。
でも、行ってみたいと思ってるなら行ってみればいい、と思い直したんです。
誰の為でもなく、自分が行ってみたいと思ってるんだから、行けばいい。
あと、今なら行ける、受け止められる、変な場所だったら拒否できる、という自分に対する信頼感がありましたし、今行かないとしたら一生行くことはないだろうな、とも思いました。
結果、twitterのゆるさに支えられ行ってみた教会は、なんというか拍子抜けするほど楽な教会でした。
変な勧誘もなく、押し付けがましさもなく、堅苦しくもなく、身内だけで固まってる感じもない。
自分自身も、変に周りに同調するでもなく、拒否するでもなく、うまいぐあいに適切な距離を保つことができました。
これは私にはなかなかできないことなので、ほっとしました。
★ ★ ★
教会に通ってみて、色々感じてること、思っていることがあります。
自分の内面とかそういうところは別にして、一つだけ社会的な視点で強く思ったのは、日本においてクリスチャンはマイノリティだということです。
数字にすれば明らかなのに、今までそのことに意識がいくことがありませんでした。
なんというか不思議だし、おかしな感じがしましたが、それが日本の宗教的に自分がマジョリティの位置にいた、ということの証明の様に思っています。
無自覚にマジョリティの位置にいるときは、マイノリティのことは見えないし分からない。
そんなことを改めて思わされました。
今回、この記事を書く事自体にためらいというか、恐れみたいなものがあったんですが、こうやって書くまでは、宗教の話題はしづらいからだと思っていたんですが、それだけではなくてマイノリティであることがより強く働いている感じがします。
クリスチャンで有名な方はいますし(この前引退した将棋の加藤一二三さんとか)、カミングアウトができる人もいる。
でも、日本の多くのクリスチャン(私はまだクリスチャンではありませんが)は、宗教的なマイノリティであるがゆえに、積極的に自分がクリスチャンであることは言っていないし、言いにくいんじゃないかと思います。
宗教のことと考えると分からない感じがしても、マイノリティという視点でみれば見えてくるものもあるんだな、そんな風なことを思っています。
元々、三浦綾子や遠藤周作の作品が好きだったりして、キリスト教自体には興味があって、20代のころ、教会に行ってみようと、自宅近くの教会の周りをうろうろしたことはあったんです。
でも入れなかった。
何が行われているのか分からないし、自分が入っていいかも分からない。(誰でもどうぞとは書いてあったとは思います)
もともと集団や組織が苦手なこともあり、結局、教会に自分からいくことはありませんでした。
今回、どうやってその壁を超えたのか?
twitterなんです。
上馬キリスト教会はtwitterアカウント【上馬キリスト教会 @kamiumach】を持っていて、そのツイートがゆるくて面白かったので、ここなら行っても大丈夫かな?と思ったんですよね。
自宅から自転車で行ける距離だった、ということもあります。
行ってみて合わなかったら一回でやめようとも思っていました。
でも、結果として、一回、北海道に行った時に休んだだけで、それ以外は毎週通っています。
昔、鴻上尚史が「とりあえずまだ宗教には頼らずにやっていこうと思ってる」的なことをどっかで書いていたことがあって、それにはなんとなくの共感も感じ、自分も宗教に頼るか頼らないか、みたいな考え方をしていた面がありました。
宗教に頼る、っていう表現も手伝ったのか、教会に行くこと自体が自分を捨てることの様に感じていたんだと思います。努力の放棄というか、自己の否定というか、考える事をやめるというか、そういう感じです。
でも、行ってみたいと思ってるなら行ってみればいい、と思い直したんです。
誰の為でもなく、自分が行ってみたいと思ってるんだから、行けばいい。
あと、今なら行ける、受け止められる、変な場所だったら拒否できる、という自分に対する信頼感がありましたし、今行かないとしたら一生行くことはないだろうな、とも思いました。
結果、twitterのゆるさに支えられ行ってみた教会は、なんというか拍子抜けするほど楽な教会でした。
変な勧誘もなく、押し付けがましさもなく、堅苦しくもなく、身内だけで固まってる感じもない。
自分自身も、変に周りに同調するでもなく、拒否するでもなく、うまいぐあいに適切な距離を保つことができました。
これは私にはなかなかできないことなので、ほっとしました。
★ ★ ★
教会に通ってみて、色々感じてること、思っていることがあります。
自分の内面とかそういうところは別にして、一つだけ社会的な視点で強く思ったのは、日本においてクリスチャンはマイノリティだということです。
数字にすれば明らかなのに、今までそのことに意識がいくことがありませんでした。
なんというか不思議だし、おかしな感じがしましたが、それが日本の宗教的に自分がマジョリティの位置にいた、ということの証明の様に思っています。
無自覚にマジョリティの位置にいるときは、マイノリティのことは見えないし分からない。
そんなことを改めて思わされました。
今回、この記事を書く事自体にためらいというか、恐れみたいなものがあったんですが、こうやって書くまでは、宗教の話題はしづらいからだと思っていたんですが、それだけではなくてマイノリティであることがより強く働いている感じがします。
クリスチャンで有名な方はいますし(この前引退した将棋の加藤一二三さんとか)、カミングアウトができる人もいる。
でも、日本の多くのクリスチャン(私はまだクリスチャンではありませんが)は、宗教的なマイノリティであるがゆえに、積極的に自分がクリスチャンであることは言っていないし、言いにくいんじゃないかと思います。
宗教のことと考えると分からない感じがしても、マイノリティという視点でみれば見えてくるものもあるんだな、そんな風なことを思っています。
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