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片付けをしていたら自分の書いた文章をみつけた [いま、ここ、わたし]

14年前と13年前の2つの文章。

最近、あれこれモヤモヤしてたことが、もうこの時点ではっきり書かれてた。

この時点でここまではっきり書かれてるけど、そこからゲームやプログラムにはうまく繋がってない。

なんだろうなぁ。

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ゲームは友達 -ゲームからはじめる共有体験-(2009/6) [いま、ここ、わたし]

2009年6月に日本シミュレーション&ゲーミング学会(JASAG)の学会誌に投稿した文章を載せてみます。

★ ★ ★

ゲームは友達 -ゲームからはじめる共有体験-

1.はじめに
 この文章は論文ではなくエッセーになっています。
 パソコンやファミコンを小さいときから触り、そして現在はゲームクリエーターとしてゲームを創る立場にいるものからデジタルのゲームを軸にしながら、ゲームから受ける体験をどう考えればよいのか、自分の経験を踏まえて何か書ければいいな、と思っています。
 なお、この文章は私の個人的な見解であり、現所属会社の意見を代表するものではないことも蛇足ながら付け加えさせていただきます。

2.このテーマに対する違和感と困難さ
 私は1969年生まれで、1979年にNECのPC−8001が発売されたときは10歳1983年に任天堂のファミリーコンピューター(通称ファミコン)が発売されたときは14歳でした。つまり小学生後半からコンピューターやゲームに関わりだし、それは今でも続いています。
 ちなみに、全国的に大ブームとなったタイトー社のスペースインベーダーは1978年に登場しています。9歳です。
 その当時でいえば「マイコン少年」や「パソコン少年」という言い方になる少年時代をすごした自分からすると、「ゲーミング・シミュレーションにおける体験や学習をどう評価するのか」という今回のテーマは、何となく居心地の悪いものです。
 自分が大好きで大切にしているものを、評価や分析の対象にすることにちょっとした違和感があるからです、それは自分の親友に対して「あの子とは遊ぶんじゃない」と親が言ってきたときのような感覚です。
 その当時でも、パソコンやファミコンに熱中する少年は、何かと非難され、「将来の為にちゃんと勉強をしなさい」といわれたり、最近でも「ゲーム脳」などの批判もあります。私は、そういう話を聞くたびに、「あの子とは遊ぶんじゃない」という声に聞こえてしまいます。
 そういう声に対して、「いやあの子にもいいところがある」と親を説得することがその子、つまりここで言えばゲームのことですが、そのゲームの社会的な信用を上げたり長期的な批判を和らげることになると分かっていても、言葉で説得することの困難さを感じてしまいます。
 私にとって、「ゲーミング・シミュレーションにおける体験や学習をどう評価するのか」というテーマは、以上のような違和感と困難さを伴うものであります。

3.デジタルと非デジタルで違う部分と同じ部分
 テーマの具体的な話に入る前に、一つ寄り道をさせていただきたいと思います。
 ゲーミング・シミュレーションと一口に言っても、コンピューターの特性を用いて行われるデジタルなものと、ボードゲームやカードゲームのようなファシリテーターを介したアナログ、つまり非デジタルなものとがあると思います。
 個人的には両方とも面白いし可能性があると思っていますが、それでも違いははっきりあると思いますので、その点について書いてみたいと思います。

3.1 デジタルゲーム
 まず先にデジタル、つまりコンピューターを使ったゲーミング・シミュレーションでは、自分が何かの入力をした後、結果が出力されるまでの間が短く、かつ対象とする事象を簡略化させてシミュレーションするため、「自分が参加している」意識を高めることができます。
 これはエンターテインメント系のコンピューターゲームでも全く同様で、ゲームクリエーターはいかにユーザーが世界に入り込めるようにするか、つまり途中でいかに「我にかえる」ようなことが起きないようするか、に最大限の気を配っています。
 それは、一見些細なことに思えるようなこと、たとえば何かを選択して画面に反応が出るまでの時間が、1/30秒や1/60秒単位で厳密に設計されていること、また、多数の選択肢がある画面で、選択肢の順番を操作しやすいように何度も設計し直したりすることなどに現れます。
 遊んでいて「操作が気にならない」というゲームは、そういうユーザーインターフェイスの設計に優れたゲームです。
 また、コンピューターゲームの特徴としては一人で遊ぶことができるという点が挙げられます。一人で遊ぶことについては批判もありますが、他者が介入しないことで、個人にとっては心理的に防御する必要がなく、安全で安心な体験が可能であるという見方もできます。

3.2 非デジタルゲーム
 かたや非デジタルゲームでは、デジタルゲームに比べた場合に高い応答性やシミュレーション性はありません。
 その代わり、参加者や全体の雰囲気を作り上げるファシリテーターによって、設計時の想定とは違った多様な結果が生まれるのが非デジタルゲームの特徴であるように思います。
 個人的な好みの話になりますが、私自身はデジタルなゲームで育ち、現時点でも仕事としてコンピューターゲームの製作者でありながら、非デジタルゲームの即興性、プレの大きさ、人とのやり取りの面白さなどにひかれます。
 ただし、デジタルゲームとは違い基本的に多人数で遊ぶことが多いため、どうしても人間関係が発生します。
 コミュニケーションをとることが苦手な人や、自分を表現することが得意ではない人、そもそもコミュニケーションに意味を感じていない人などの場合は、非デジタルゲームを受け入れることには困難が伴うことがあります。
 また、コンピューターやコンピューターゲームが生まれたときから当たり前に存在していた人々にとっては、コンピューターを使ったゲームのほうがリアルタイム性という点で刺激的ですし、なじみもあるため受け入れられやすいと思います。
 ただ、基本的にコンピューターは「石頭」であり、融通が利きません。そのため、プレイヤーはどうしてもコンピューターの都合に合わせる形になってしまい。プレイヤーは受け手になりやすいです。そこに拒否感がある人はいるとも思います。

3.3 デジタルと非デジタルのゲームの共通点
 このようにコンピューターを介したものか、そうでないかでいろいろな違いがあり、その人の育ってきた環境などで、それぞれに対する距離感や受け入れやすさが違うと思います。ただ、その違いを乗り越えて、ある共通点があるようにも思います。
 それは、ゲームはいわゆる現実ではないということです。
 デジタルか非デジタルかでコンピューターの中か外かの違いはあれ、あくまでゲームの「場」はいわるゆる仮想空間であり、「現実」のさまざま前提を超えることができる可能性があります。前提の例としては、たとえば教室内ででき上がってしまっている友達との人間関係的なパワーバランスや、教師と必然的に発生してしまう権力関係、自分の持っている(と思っている)属性などが挙げられると思います。
 コンピューターを使ったゲームでは「それが仮想空間である」ということは暗黙の前提になっており、ほとんどの人はそれを承知して入り込むことができますが、非デジタルゲームの場合、「それが仮想空間である」ことは前提ではないため、アイスブレーキングなどによって、参加者の身構えをといたり、ファシリテーターが雰囲気を作る必要がでてきます。それは時に参加者の拒否にあったりして、困難を伴うことだと思います。
 それでもよく場作りができた場合は、デジタルでも非デジタルでも同様にその「仮想空間」で「ロールプレイ」をすることで、違った視点を獲得し、自分が持っている思い込みから解放され、新たな経験ができるものだと思います。
 そして、「現実空間」に戻ってきた後、デブリーフィングをすることで、その「仮想空聞」の出来事、つまり「のめりこみの経験」としての視点を、一定の距離感を持って「現実空間」に置き直すことができるのではないかと思います。
 それでは、もしこの経験を「仮想空間」ではなく「現実」として体験したとしたらどうでしょうか?
 自分の置かれている状況や経験がそのままで、何かの問題や事象を体験することは、ある意味、有意義ではありますが、ものによっては、非常な困難が伴いますし、それに耐えられず傷つく人も出てくると思います。
 またゲームと違い、現実はなかなか変えることができません。経済や国のシステム、国際社会の関係性を変更することなど個人の力では簡単にはできません。そういう「現実の変わらなさ」だけを直接体。験することは「あきらめ」を誘い、社会に対してアクションする力を弱めてしまいます。
 何か新しいことをするときには、「できることからやる」必要があると思いますし、何かができてから、次のことをやるのでも全く問題はないはずです。
 「仮想空間」で安全に新しい体。験ができるゲームというものには、「半歩先を経験する」手助けができる可能性があると思います。

4.ゲームに対する批判をどう受け止めているか
 ゲームを教育に使う場合、常に伴う批判というものがあると思います。そのうち、「それはあくまでゲームであって現実ではない」ということと、「ただ楽しいだけじゃないか」ということは、多く寄せされるのではないでしょうか。
 そういう下地があるからこそ、ゲーミング・シミュレーションの学習の効果についても、より強く説明を求められているという気がしています。
 また、エンターテインメント系のゲームでも、残虐表現や性的表現が過剰であるとして、ニュースになるゲームがあることはみなさんもよくご存知かと思います。
 このような批判にどう答えていくのか、ゲームクリエーターとしては常に考えさせられていますし、今回の文章をお受けした理由のひとつも、もうちょっと掘り下げてこの問題を考えてみたいと思っているからでもあります。
 今のところ批判に対する回答としては明確な答えは持っていませんが、なんとなく、批判に答えるという形で何か自分に言えることができ上がる、ということはないかもしれない、と思っています。
 それは、ゲームの持つ特性であり面白さの源泉でもある、「仮想現実感」や「一人でも遊べること」「世界を変えられること」が、基本的には現実の世界とは違ったもの、なかなか体験できないものであるから面白いのであり、それを無視して批判を直接受け入れてしまえば、ゲームの放つ魅力はなくなってしまう、と私が考えているからです。
 残虐表現や性的表現が野放しになることや、社会的な現実からあまりにも離れた教育的ゲームが創られることは、ゲームそのものの問題ではなく、クリエーターの素養の問題です。
 つまりゲームを創る私やあなたの問題です。
 そして、もし悪質なゲームが多く出回っていて、ゲームに対する批判が高まっているとするならば、それに対する解決策は、より良いと思うゲームを創る人を増やすことにしか求められないのではないか、と思います。
 ゲームクリエーターである自分ができることはそのようなものだと考えていますし、もし他のゲームクリエーターの方が共感してくれるなら、それはとてもうれしく、力強いことに思います。

5.先回りしないこと、答えのないこと
 何らかの体験が後々になって気づきにつながった、という経験は多くの方が持っていると思います。
 たとえば、昔好きだった歌を久々に聞いてみたとき「こんな歌詞だったのか」とその意味に気づくことや、小説やマンガを改めて読んでみて違う解釈がありうることに気づくとか、挙げていくとキリがありません。
 そういう多様な経験が、その後、その人の人生に彩りを添えることがある、そういうレベルではゲームでも同じことが言えると思います。
 ただ、それを「体験した直後に評価する」ということは、やはり難しいと言えます。
 さらにゲーミングの場合に「評価すること」自体が困難さを増しているのは「評価がある」とプレイヤーが気づいた時点で、その評価軸に沿ってプレイヤーの体験が誘導され、答えが導き出されてしまう可能性がある、ということです。
 その場合、体験し気づきを得る(という可能性を高める)という、ゲーミングの本来の目的からは大きくはずれ、ファシリテーターが望む「答え」をプレイヤーが探すことになります。
 「答え」が決まっているゲームほど面白くないものはありません。
 ここが、常にゲーミング、特に教育や学習を目的としたものに付きまとう問題点であり、多くのファシリテーターの方が苦労されている点であるように思います。
 いかに答えのない状態を続けられるか。どこまでプレイヤーに投げっ放しにできるか。毎週1回でも継続的にお互いに会ったり話したりすることができれば、体験の共有や意見の交換ができるので良い気がするのですが、一度きりのゲーミングだと、本当に本当に難しいと思います。

6.みんなで考える
 一部のこと、たとえば初歩の数学などには一定の答えがありますが、世の中の多くのことは、いろいろな考え方や解決方法があります。さらに言えば簡単には解決方法が見つからないような問題も社会に数多くあります。
 そういった問題を考え続ける場合、ただずっと頭をめぐらせて考え続け続けるのは、とてもパワーのいることですし、ましてやそのようなことを他人に要求することはかなり困難だと思います。
 また、簡単に答えの出ないことについて一緒に集まり考え続けるということが日本の文化では普通でなくなってしまっているため、お互いに何か問題を話し合うというときに共通の「素地」がありません。
 そこで、ともに問題を考えるツールとして、「素地」を提供できるひとつの可能性としてのゲーム、という考え方ができると思います。
 仮想空間で繰り広げられるゲームは、「いったん自分のことは棚に上げる」、つまり前提を超えることができる、ということは、先に取り上げましたが、そのような特徴から、現実の立場のままでは利害関係や人間関係によってコンフリクトが発生してしまい、話し合うことすら不可能な問題であっても、視点をズラし、まずはその問題がそもそも何なのかを話し合うことが可能になります。
 問題そのものを話し合う必要がないのであれば、ツールなどは必要ないと思います。ただ、必ずしもそうでない場合、まず一番必要なことは、お互いにリラックスして、深刻になりすぎず、それぞれの思っていることを語り出せる場を作ることではないでしょうか。
 そう考えたとき、ゲームの作る仮想空間が果たす役割はあると考えます。

7.友達の条件
 最初に述べたように「ゲーミング・シミュレーションにおける体験や学習をどう評価するのか」というテーマは、私にとっては少々困難さを伴うものです。
 それは「ゲームは友達である」という立場に立つ私にとっては、「友達」を評価することの困難さ、居心地の悪さと同様のものです。
 ここまでいろいろと「友達」を擁護するようなことを書いてきたわけですが、基本的には友達は何か利益が得られるから友達なのではなく、単に一緒にいたい、仲間だ、という、それだけの気持ちが基本なのだと思います。
 今の時代にこういう風に言い切るのは少々気恥ずかしいですし、こういった学会誌に書くようなことでもない気もして、気後れする部分がかなりありますが、でもそう言い切るところからしか始まらないことも、またあるように思っています。
 こういう立場に立つことで、いろいろな批判があることは容易に想像ができます。すぐ後ろから声が聞こえてくるようです。
 ただ、評価したり分析したり批判したりすることは誰にでもできますが、友達や仲間でい続けることは誰にでもできることではありません。
 信じて信じて信じ続けることは、誰にでもできることではないと思います。
 そうして信じ続けることが、その黎明期から人生のかなりの時間をともに歩んできた友達へ、私が今できることだと思っています。

8.まとめ〜ゲームは世につれ世はゲームにつれ〜
 繰り返しになりますが、ゲーミング・シミュレーションという方法は学習の効果としての即時性が基本的にありませんし、測定方法もあいまいです。
 ゲーミング・シミュレーションの後にやることは、通常の「テスト」ではなくデブリーフィングであり、評価も「点数」ではなく、「気づいたこと」や「感じたこと」に対する意見交換だったりします。
 このように、将来的に「じわじわ効いてくる」もの、しかも「効くかもしれないし、効かないかもしれない」ものを、外部の人に、しかも「ゲームを遊んだことのない人」(そんな人がいるなんて!)に対して、説得力のある説明をすることは、基本的に至難の業であると思います。
 ただ、それでも時代が過ぎていけば、確実に「ゲームを遊んだことのない人」は減ってきますし、良いゲームが世の中に多い状態を私たちが続けられれば、「ゲームのよさ」を知っている人は増えてきます。
 それは基本的に希望を持って良い事柄だと思っています、小説や映画、ラジオ、テレビ、マンガやアニメなど、すべての新しいメディアは同じ道をたどっています。私はそのことに勇気づけられます。
 また、「即時性のないこと」については、先に答えを求めすぎる社会、何かが分からない状態に耐えられない、先回り先回りしないと安心できない、しかも実はその方法ではどこまでも安心することのないという出口のない社会、そんな不安な社会に生きる私たち全体の課題であり、学習や教育だけ、ましてやゲーミング・シミュレーションという手法の問題として捉えていては解決できるものではない、と私は思っています。
 個人的には、今はサービスラーニングというボランティアなどの社会的な実践と学習をセットで行う教育方法に関心があり、それとゲーミングをからめることで、何か「おもしろくてためになる」ようなやり方がつかめるのではないかと考えています。

おわりに
 今回の文章はJASAG2006年秋の大会から参加させていただいている私が、会員のみなさんとのディスカッションからゲームクリエーターとしての普遍性を感じ力をいただいたと同時に、コンピューターゲーム製作者としての特殊性も意識させられ続けてきた、そういうジレンマにも似た状況から多くを得て書くことができました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
 また、この文章を書くことを薦めてくださった秋田大学の井門さん。ありがとうございます。現場にい続けると考えていることをまとめたり、こうやって外に向かって発表したりする機会が極端に少なくなります。
 私は、それぞれ立場の違う方々が、それぞれ自分が立っている場所から、今思っていることを率直に話すことはとても重要だと思っています。
 とにかく誰かが何かを話し始めないことには、何も始まらないわけですから。
 こうやってJASAGがゲームクリエーターや研究者の方々、またゲームをいろいろな場所で使っていただける方々などを、うまくファシリテートしていくことは、とてもステキなことだと思っています。
 最後に個人のメールアドレスを載せておきます。
 何かを考え過ぎてやめてしまう前に、ただ感じたことを実行するのは想像以上に困難なものですが、やり始めると面白いものでもあると思います。
 ある意味「空気を読まない」能力とでもいいますか。
 …ということで、ご意見ご感想などありましたら、お気軽にお寄せください!大歓迎です!

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ゲームの力を信じ続けること ー軋みから生まれる次の可能性ー(2008/12) [いま、ここ、わたし]

2008年12月に日本シミュレーション&ゲーミング学会(JASAG)の学会誌に投稿した文章を載せてみます。

★ ★ ★

ゲームの力を信じ続けること ー軋みから生まれる次の可能性ー

 「お前が先生だったらよかったのに」
 高校の卒業式の帰り、汽車にゆられているなか友人のTは私にそういったのでした。
 Tは一般的に不良と呼ばれるヤツで、学校も来たり来なかったり、授業に出ても教師と喧嘩を始めるようなヤツでした。
 北海道の田舎の高校に通う私は、優等生ではなく、かといって不良でもない、ただコンピューターゲームが好きで、コンピューターゲームを作れる仕事につきたいと思っていた高校生でした。
 卒業後、コンピュータープログラムの専門学校を経て、運良くゲーム会社へ入社した私は好きなことを仕事にしたこともあり仕事に打ち込みました。
 その時のゲーム業界はファミコンブームが一段落し、任天堂のスーパーファミコンが発売された時期で、一定の成熟期に入った感がありました。
 今にして思えば作ってる作品もチーム人数もそれほど大きな規模ではなく、手の届く範囲のやり方で、かつ「ゲームが好き」という気持ちだけでやっていた面が強かったと思います。自分も業界も「若い」という面もあったでしょう。
 ただ、はじめの会社を辞め、ちいさなゲーム開発会社に転職したことで、「ゲームが好き」だけではない仕事の仕方、つまりコスト計算やクライアントとの駆け引きの仕方を身に着けていった私は、ゲームマシンの進化に伴う開発規模拡大のタイミングとも相まって、自分にとって「ゲームを作る」ということがどういうことなのか、どんどん分からなくなっていきました。
 その当時、そんな私の悩みを相談した以前の上司には「青いな。大人になれよ」なんて言われたりもしました。
 どこからか「シリアスゲーム」という単語を耳にしたのはそんなころで、いろいろと調べるうちにJASAGのことを知りました。
 JASAGに出会う以前から、教育については興味があり、本などはよく読んでいましたが、それをゲームと直接つなぐことは、あまり想像していなかったので、シミュレーションやゲーミングを通して、教育や学習に積極的に関わるJASAGの姿勢に強く興味をひかれたことを覚えています。
 参加させていただいた当初は、自分が何か新しいゲームを作り出せるようになるきっかけにできるのではないかと思っていましたが、すぐにそういう自分勝手な「新しさ」を前提にした考え方と教育や学習は相性が悪いのではないかという風に考えるようになりました。
 それは、自分の教育への思いと連動しているのですが、何かそういう「新しさ」、自分の都合による「ネタ」を優先するような考え方は、目の前の人を見えなくし、上から何かを押し付けるような結果になるのではないか、それは自分が思う教育とは違うのではないか、という気持ちでした。
 「お前が先生だったらよかったのに」とTに言われたことは、自分が教育というものを考える原点になっていますが、彼の言葉から私が勝手に想像していったのは、一緒に寄り添って考えていくことの必要性、早急に分かりやすい答えを出すことではなく、時間をかける、手間隙をおしまない、そういうことが必要なんじゃないか、ということでした。
 そんな長らく暖めてきた自分の教育に対する考え方と、ビジネスという早急に結果を求めざるをえない場所に長く身を置いてきた感覚が、JASAGに参加させていただくようになって、矛盾とまでは言い過ぎにしても、何らかの軋みを自分に与えていることは確かです。
 JASAGに参加してみなさんの話を聞いていると、とても長い単位で物を考えられているんだなと思い、いかに自分が短い単位でしか物を見れていないか痛感させられます。
 ただそれは心地よい痛みであって、自分なりの「教育とゲームの接点」を見つけるためには必要な振り返りであると感じていますし、もしかするとそれ以上に「ゲームが好き」という、そもそもゲーム製作者を目指した自分の原点をも振り返り、次の「何か」を見つけるきっかけになるのではないだろうかと、最近は思っています。
 私もあなたも、そしてもしかしたら世の中をも楽しくしていける、ゲームにはそんな力があると思います。
 ゲームを作る人たち、そして遊んでくれる人たちが、その力を信じ続け実践していくこと。それだけがゲームの力を引き出すのではないでしょうか。

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