映像の世紀、ミヒャエル・エンデの「モモ」 [いま、ここ、わたし]
さっき、立て続けに2本、NHKの番組を見た。
【映像の世紀プレミアム(15)「東京 夢と幻想の1964年」】は、1964年に開催された東京オリンピックを軸にしながら、その年にどんなことが東京で起こっていたのか、当時の映像を使って作られた番組。
敗戦後19年の1964年、オリンピックでの聖火リレーに込めた思いや選手の人達のこと、東京での深刻な水不足(「東京砂漠」という表現が使われていた)や、ベトナム戦争の影響、「血液銀行」に血液を売って暮らす人達、オリンピックの後の不況や失業のこと。
今、2021年のコロナの中での東京オリンピックのことと比べながら、なんども涙が出てきた。
映像に取り上げられていた一人ひとりの想いは、まとめることはできないけど、ただその存在を強く感じ続けながら見た。
次に取り上げる「コロナ新時代への提言3」の録画を見ようと思ってテレビをつけたら、たまたまやっていたんだけど、いいタイミングで見られて、本当によかった。ありがとうNHK。
★ ★ ★
先日、初回放送をちらっと見て、全編見たくて再放送を録画しておいた【コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ】。
ミヒャエル・エンデの「モモ」を一つの軸にしながら3人の人から語られた話は、以前なら頭で考えていただろうことを、今の自分の体感をベースに体に染み込ませながら見られた。
ちょうど一年前の7/3にfacebookに書いた【投稿】があるので、少し編集して、こっちでもシェアしておく。
★ ★ ★
ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ。
この作品を読むのは初めてで、でも『モモ』は、昔から私にとって特別な作品だった。
ーーー
私にとって、忘れられない一人の先生がいる。
高校で現国を教えていた、S谷先生だ。
私が敢えてみんなが通う紋別市内の高校には行かず、わざわざ汽車で一時間弱かかる興部(おこっぺ)高校という遠い高校に通い始めた時、S谷先生も新任教師としてその高校に赴任して来た。
当時、S谷先生はたぶん20代で、今思えばどことなくヒッピー風で、他の先生とは見た目からして一味違っていた。
そして、一味違っていたのは見た目だけじゃない。彼は常に「自分は仙人になる」と宣言している人でもあった。
当時は半分ぐらいは冗談だと思っていたけど、その後、実際に仙人になる為に学校を辞め中国に渡ったので本気だったようだ。(ただし、滞在中に天安門事件があり日本に戻ってきたらしい)
そんなS谷先生の授業は、当然一味も二味も変わっていた。
ものすごく不機嫌な顔をして入ってきて、「今日は機嫌が悪いから自習!」と宣言し、授業中ずっと窓のそとを見ているかと思えば、教科書そっちのけで詩を朗読して聞かせたり、自分が日本全国をヒッチハイクでまわった話を色々したり、まだアニメ化される前だった野坂昭如の「火垂るの墓」を授業で取り上げたり。
生真面目だった自分からみたS谷先生は、やることなすこと突飛で破天荒ですごかった。
「教師がこんなことしていいんだ・・・」とあっけに取られつつ、その型にはまらない自由さは、「普通さ」から出ようともがいていた(当時はそんなはっきりした自覚はなかったが)私にとって1つの生きた指針になり、とても助けられた。
ーーー
そんなS谷先生は、演劇部の顧問もやっていた。
高校3年生、いや2年生の時だったか、一度、演劇部に誘われたことがあった。
芝居なんて自分にできると思わなかったし、それまでにみた芝居で面白いと思ったものは1つもなかった。
中学生のころからゲームプログラマーになることを決めていた私は、自分を理系の人間だとしか認識してなかったし、漫画以外の本を読んだことも殆どなかった。
そんな私にS谷先生は、「お前はさ理系じゃないよ。文系だよ。」と言い放ち、演劇部に誘ってきたのだった。
その時は、びっくりして断ったけど、別にしつこく誘ってくることはなかった。
そして、その演劇部が学園祭に上演したのが、ミヒャエル・エンデの『モモ』だった。
まったく期待しないでみたその芝居は、ものすごく良い出来で、私は完全に打ちのめされた。
面白い芝居ってあるんだ。はじめてそう思った。
同級生が多く出ていたその芝居は、噂ではものすごく練習が大変で、毎回みんな泣きながらやっていたそうだ。
たぶん、S谷先生も真剣に取り組んでいたんだと思う。そういう人だ。
この時の誘いを断ったことをずっと後悔していて、それを解消したくて2017年に【アイゼ・スタジオ】で演技のトレーニングを受けたり、等々力にある【野毛青少年交流センター】主催で行われた「古墳で演劇」という芝居に出させてもらったりした。
ーーー
そんな、『モモ』だけど、きちんと読んだことはなかった。
時間どろぼうが時間を盗んでいて、それをモモが解決する、ぐらいの知識しかなかった。
コロナで家にいるようになった2020年の春、『モモ』を取り上げてる文章をいくつか目にする機会があって、今が読むタイミングかと思って読んでみた。
古典なんだと思い込んでたら、ドイツ語の初版は1973年、日本語版は1976年で、自分が生まれた後の作品だった。
物語の中盤、時間を配る賢者であるマイスター・ホラとモモとの会話が印象に残った。
モモ「それなら、時間どろぼうが人間から時間をこれいじょうぬすめないようにすることだって、わけもないことでしょう?」
ホラ「いや、それはできないのだ。というのはな、人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。わたしにできることは、時間をわけてやることだけだ。」
また、モモが「時間のみなもと」を見るシーン。
そして、最後に時間どろぼうに盗まれていた、それぞれ違い、それぞれ素晴らしい「時間の花」が「ほんとうの居場所」である、ひとりひとりの心の中に戻っていくシーン。
好きな作品だな、と思う。良いタイミングで読めた。
ーーー
いつか、S谷先生の話は文章にしたかった。
2005年のこと、ふとネットで検索したらS谷先生のメールアドレスが見つかり、メールしてみたら返事をくれて、勤務先の高校で生徒向けに書いている文章をたくさん送ってくれたことがあった。
その文章で高校の時の教師の一人がバイク事故で亡くなっていたこと、また宇宙飛行士を目指してた同級生も海難事故で亡くなっていたことを知った。
2007年には【札幌まで会いに行った】こともある。
その時は仕事に行き詰まっていて人生相談をするつもりだったんだけど、逆に人生相談されたっけ。(結構大変な内容だった)
「何歳になっても、人生は大変なんだよ!」みたいなことを言われて、なんか「ああ、そうか」と自分の悩みが相対化されていく感じがあって、楽になったのを覚えてる。
直接会った時は言えなかったけど、東京に戻ってからお礼を兼ねたメールでゲイだとカミングアウトしたので、カミングアウトした二人目の人でもある。
今は連絡を取り合ってはいないけど、元気にされているだろうか。
しかし、S谷先生の「お前はさ理系じゃないよ。文系だよ。」の一言は強烈で、「そうなのか...?」と思って、それから本をたくさん読むようになったし、文系プログラマーを自称するまでにもなった。
今でもとてもとても感謝している。
【映像の世紀プレミアム(15)「東京 夢と幻想の1964年」】は、1964年に開催された東京オリンピックを軸にしながら、その年にどんなことが東京で起こっていたのか、当時の映像を使って作られた番組。
敗戦後19年の1964年、オリンピックでの聖火リレーに込めた思いや選手の人達のこと、東京での深刻な水不足(「東京砂漠」という表現が使われていた)や、ベトナム戦争の影響、「血液銀行」に血液を売って暮らす人達、オリンピックの後の不況や失業のこと。
今、2021年のコロナの中での東京オリンピックのことと比べながら、なんども涙が出てきた。
映像に取り上げられていた一人ひとりの想いは、まとめることはできないけど、ただその存在を強く感じ続けながら見た。
次に取り上げる「コロナ新時代への提言3」の録画を見ようと思ってテレビをつけたら、たまたまやっていたんだけど、いいタイミングで見られて、本当によかった。ありがとうNHK。
★ ★ ★
先日、初回放送をちらっと見て、全編見たくて再放送を録画しておいた【コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ】。
ミヒャエル・エンデの「モモ」を一つの軸にしながら3人の人から語られた話は、以前なら頭で考えていただろうことを、今の自分の体感をベースに体に染み込ませながら見られた。
ちょうど一年前の7/3にfacebookに書いた【投稿】があるので、少し編集して、こっちでもシェアしておく。
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ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ。
この作品を読むのは初めてで、でも『モモ』は、昔から私にとって特別な作品だった。
ーーー
私にとって、忘れられない一人の先生がいる。
高校で現国を教えていた、S谷先生だ。
私が敢えてみんなが通う紋別市内の高校には行かず、わざわざ汽車で一時間弱かかる興部(おこっぺ)高校という遠い高校に通い始めた時、S谷先生も新任教師としてその高校に赴任して来た。
当時、S谷先生はたぶん20代で、今思えばどことなくヒッピー風で、他の先生とは見た目からして一味違っていた。
そして、一味違っていたのは見た目だけじゃない。彼は常に「自分は仙人になる」と宣言している人でもあった。
当時は半分ぐらいは冗談だと思っていたけど、その後、実際に仙人になる為に学校を辞め中国に渡ったので本気だったようだ。(ただし、滞在中に天安門事件があり日本に戻ってきたらしい)
そんなS谷先生の授業は、当然一味も二味も変わっていた。
ものすごく不機嫌な顔をして入ってきて、「今日は機嫌が悪いから自習!」と宣言し、授業中ずっと窓のそとを見ているかと思えば、教科書そっちのけで詩を朗読して聞かせたり、自分が日本全国をヒッチハイクでまわった話を色々したり、まだアニメ化される前だった野坂昭如の「火垂るの墓」を授業で取り上げたり。
生真面目だった自分からみたS谷先生は、やることなすこと突飛で破天荒ですごかった。
「教師がこんなことしていいんだ・・・」とあっけに取られつつ、その型にはまらない自由さは、「普通さ」から出ようともがいていた(当時はそんなはっきりした自覚はなかったが)私にとって1つの生きた指針になり、とても助けられた。
ーーー
そんなS谷先生は、演劇部の顧問もやっていた。
高校3年生、いや2年生の時だったか、一度、演劇部に誘われたことがあった。
芝居なんて自分にできると思わなかったし、それまでにみた芝居で面白いと思ったものは1つもなかった。
中学生のころからゲームプログラマーになることを決めていた私は、自分を理系の人間だとしか認識してなかったし、漫画以外の本を読んだことも殆どなかった。
そんな私にS谷先生は、「お前はさ理系じゃないよ。文系だよ。」と言い放ち、演劇部に誘ってきたのだった。
その時は、びっくりして断ったけど、別にしつこく誘ってくることはなかった。
そして、その演劇部が学園祭に上演したのが、ミヒャエル・エンデの『モモ』だった。
まったく期待しないでみたその芝居は、ものすごく良い出来で、私は完全に打ちのめされた。
面白い芝居ってあるんだ。はじめてそう思った。
同級生が多く出ていたその芝居は、噂ではものすごく練習が大変で、毎回みんな泣きながらやっていたそうだ。
たぶん、S谷先生も真剣に取り組んでいたんだと思う。そういう人だ。
この時の誘いを断ったことをずっと後悔していて、それを解消したくて2017年に【アイゼ・スタジオ】で演技のトレーニングを受けたり、等々力にある【野毛青少年交流センター】主催で行われた「古墳で演劇」という芝居に出させてもらったりした。
ーーー
そんな、『モモ』だけど、きちんと読んだことはなかった。
時間どろぼうが時間を盗んでいて、それをモモが解決する、ぐらいの知識しかなかった。
コロナで家にいるようになった2020年の春、『モモ』を取り上げてる文章をいくつか目にする機会があって、今が読むタイミングかと思って読んでみた。
古典なんだと思い込んでたら、ドイツ語の初版は1973年、日本語版は1976年で、自分が生まれた後の作品だった。
物語の中盤、時間を配る賢者であるマイスター・ホラとモモとの会話が印象に残った。
モモ「それなら、時間どろぼうが人間から時間をこれいじょうぬすめないようにすることだって、わけもないことでしょう?」
ホラ「いや、それはできないのだ。というのはな、人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。わたしにできることは、時間をわけてやることだけだ。」
また、モモが「時間のみなもと」を見るシーン。
そして、最後に時間どろぼうに盗まれていた、それぞれ違い、それぞれ素晴らしい「時間の花」が「ほんとうの居場所」である、ひとりひとりの心の中に戻っていくシーン。
好きな作品だな、と思う。良いタイミングで読めた。
ーーー
いつか、S谷先生の話は文章にしたかった。
2005年のこと、ふとネットで検索したらS谷先生のメールアドレスが見つかり、メールしてみたら返事をくれて、勤務先の高校で生徒向けに書いている文章をたくさん送ってくれたことがあった。
その文章で高校の時の教師の一人がバイク事故で亡くなっていたこと、また宇宙飛行士を目指してた同級生も海難事故で亡くなっていたことを知った。
2007年には【札幌まで会いに行った】こともある。
その時は仕事に行き詰まっていて人生相談をするつもりだったんだけど、逆に人生相談されたっけ。(結構大変な内容だった)
「何歳になっても、人生は大変なんだよ!」みたいなことを言われて、なんか「ああ、そうか」と自分の悩みが相対化されていく感じがあって、楽になったのを覚えてる。
直接会った時は言えなかったけど、東京に戻ってからお礼を兼ねたメールでゲイだとカミングアウトしたので、カミングアウトした二人目の人でもある。
今は連絡を取り合ってはいないけど、元気にされているだろうか。
しかし、S谷先生の「お前はさ理系じゃないよ。文系だよ。」の一言は強烈で、「そうなのか...?」と思って、それから本をたくさん読むようになったし、文系プログラマーを自称するまでにもなった。
今でもとてもとても感謝している。
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