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「ことば」と「思考」の距離? [それでもどっこい生きてます]

こんにちわ。

言葉を話したり、書いたりすることは、自分の思考を映し出すことだと思っていました。でも、もしかすると、言葉は思考にぶら下がっているものではなく、言葉そのものとしてあるものなのかも知れません。
たとえば、ここで日記をあらわしているこの言葉は、自分の思考の結果、というよりも、ただ自分の中からあふれ出ている言葉そのものかも?ということです。
それは、必ずしも自分で制御のできないものに感じます。
「歩く」ことが「意識で制御して左右の足を動かす」ことでなく、もうちょっと自然の行為であるように、というぐらいの意味でです。

ちょっと前の日記で、「自分が考えていることを書くのは難しい」という意味のことを書きましたけど、厳密には「自分が書いていることをつかまえ、制御するのは難しい」ということなのかもしれませんね。

「「聴く」ことの力」を読んでいて、そんなことを考えました。

この本は全体的に、他人との関係において「ただそこにある(いる)こと」「行為の意味ではなく、行為そのものの」など、自分の行為や意思ではないものの影響について、論じています。
「意味」からはじまると考え勝ちな人の「行為」について、逆に、それは「行為」から始まり「意味」は後に来ているという風な指摘が興味深いです。

お互いに間を開けずにしゃべりあう人達(意味の交換が主)と、ただ黙って一緒にいるだけの人達(時間の交換が主)との違い、とでもいいましょうか。もちろん、どちらが良いとか悪いとかいう話ではないです。

では、また!

著者 : 鷲田清一
CCCメディアハウス
発売日 : 1999-06-23

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