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「虐げられた人びと」ドストエフスキー [それでもどっこい生きてます]

運命、もしくは自分自身にに抵抗しながら、悲しんで、喜んで、そして死んでいく。そんな普通の人々のお話です。
タイトルから言えば、虐げる人と虐げられる人のお話、ともいえるかも知れません。
人格的な対立と、階層社会的な対立が、織り交ざっています。
持てるものと持たざるものですか。

善悪や人格や運命が、どこまで人の範疇にあって、どこから神の範疇にあるのか。つまり、どこまでコントロールが可能なのかどうか。
ロシア文学を読んで思うのは、そんなことです。重めですね。

さらに考えを進めると、こういう重めの話は、理想や正義や倫理や、そういうものを捕まえようとする話でもあるわけです。
でも、そういうものは、重く、とらえがたく、手に負えないものでもあります。しかも、それは自由を縛る可能性が高いです。

「携帯電話の電源をお切りください」
「ガムはくずかごに」
「タバコのポイ捨てはやめましょう」

確かに良いことです。でも、良いことと悪いことの区切りはどうやって誰が決めるんでしょうか。そんなこと誰も決められないけど、決まっていく。
だから、多分、それは、倫理観で決まっているわけじゃない。

自由を縛る感じがするから反発する。
でも、正しいことや倫理は、多くの人に共有させることが必要で、それが目的でもある。「正しいことをする」ことじゃなくて、「正しいことを他の人に共有させる」ことが目的。

だから、無味無臭で透明なモノゴトを、みんな受け入れていく。透明なことは強制してこないから。
正義や倫理や意味なんて要らない。そんな強制はいらない。
ロシア文学なんていらない。

でも、時としてそれを求めてしまう人がいて、でも、自由を捨てることはできず、両立が不可能なことに気づいて絶望する。

無味無臭を突き抜け、腐臭をただよわせながら、透明でありたいと願う人々の無言の叫びを、自分は、手触りのある終わりなき時間の中で、感じることはできるのだろうか。

悲しき酔っ払いの。


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