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「善の研究」西田幾多郎 [それでもどっこい生きてます]

銀閣寺から南に伸びる「哲学の道」。
西田幾多郎が散歩しながら考えにふけったことから、そう名づけられた道です。
初めて京都行ったときに散歩したその道。
私にとっての西田幾多郎は、そこから始まっています。

善とは何か。

たとえば、明日会社で「善とはなんだと思う?」なんて同僚に聞いたら、「はぁ?」という反応は間違いなしです。
これは「善」にかぎらず「徳」や「真理」や「神」でも同じで、いまどき冗談以外でこれらのことが話されることは、ほぼありません。
善の研究を読みながら思ったことは、少なくとも今よりは、そういうことを語れて普通に返事がくる時代だったのだろうな、ということでした。それは私にとっては、とてもうらやましいことです。

この本で西田幾多郎が述べていることは、私にとってはいちいち「そうだよなぁ」ということばかりでした。新しい発見というよりは、「ああ、やっぱり同じ様なことを考える人はいるんだな」という感じ。
多分、この本を書いた西田幾多郎なら怒らずに、この感じを受け止めてくれるでしょう。
「意識が統一されるということ」の実感に対する確信。
分化と統一を繰り返す意識のライブ感。
時間と空間を問わない意識の存在感。

・・・ここだけ読むとなんか電波っぽいこと書いてますが、本を読めば別に電波じゃないことは分かると思います。多分。きっと。そうだといいな。

西田幾多郎は鈴木大拙と親交もあったことから分かる様に、禅の影響が色濃い面はあるでしょうが、それでもこの本を読んで共感する人は世界にたくさんいる様な気がします。多分。きっと。

こういったことを考えたりすることが、いつから電波的な扱いを受けるようになったのか分かりませんが、複雑すぎる世の中を泳ぎながらも自分をシンプルに保とうとすること、たくさんの情報を受け取って意識が急速に分化(分裂?)していく流れに巻き込まれながらも「自分でいる」「自分である」「みんないる」「みんなとある」ことを諦めないこと、そのためにも「善とは何か」という問いは今日的な問いでもあると思います。

・・・しかし、「今日的な問い」ってカッコいいな。新聞みたい。また使おう!

~~追記~~
一応解説なしで読みましたけど、共感するところが多かったからか、それほど苦なく読めました。
明治っぽい文体も、また味わい深いものですね。


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