議論からダイアローグへの跳躍【議論をすることは良いことですか?その2】 [それでもどっこい生きてます]
例によってgoo辞書(大辞林 第二版)から。
ぎろん 1 【議論】
(名)スル
それぞれの考えを述べて論じあうこと。また、その内容。
「―をたたかわす」
ダイアローグ 4 [dialogue]
対話。特に、劇や小説中の人物の言葉のやりとり。また、対話劇。
⇔モノローグ
このblogで再三とりあげていることから分かるように、9月3日に書いた【議論をすることは良いことですか?】という記事は自分にとっては、とても大きな転換点になっている様で、自分自身とてもびっくりしています。
だって、記事を書いたときは、ただもう闇雲に思ったことを書いていただけで、「これはオレっち良いこと言ってるぜ。うっしっし」なんて気配すらなかった訳です。
あの記事を書いた後、私にとってはこのblog上で3つのホットな記事がありました。
9月3日:【本田由紀のblog閉鎖、一体お前ら何がしたいんだ!】
9月23日:【空気を読まないロクデナシへの讃歌~国旗国歌強制は違憲という判決に寄せて】
9月28日:【強制と教育の関係について】
この3つに頂いたコメントやトラックバックに対して、議論をすることから逃げてはいけない、もっと人と繋がりを持ちたい、という気持ちと、議論をすることで自分の言葉を殺したくない、という気持ちのせめぎあいで、結構消耗しました。
それ以降はなるべく議論を起こすような記事をコソコソと避けていました。
議論はしたくないから。疲れるから。
それに、【mixiの日記と連動させました】以降、リアルの知り合い、しかも会社の同僚もココを見ている訳で、
「あいつは最近、政治やらの小難しい話を書いていて、付き合いづらいやつだ」
「左翼じゃねーのか」
「右翼じゃねーのか」
「なんか思想はいってんじゃねーの?」
って思われるのが怖い、という気持ちもありました。(幸い、実際に言われたことはないけど)
でも、そんな中で、【キリスト者として今を生きる】さんところの11月20日の記事、【創価学会はなぜ教育基本法「改正」なのか】なんて見つけて、ガッツリ後頭部を殴られてしまう訳です。
創価学会の人と教育基本法について、さらに公明党へ選挙協力をしていることについて、話す場を提供する。
それを「凄い」と思ってしまう自分がいて、「人のこと凄いとか言ってる場合じゃねーだろ」と突っ込む自分もいる。
これは「言論の自由」なんてキレイ言葉じゃなくて、「崖から飛び降りる勇気」とでもいうものです。
「直観でわかる数学」風にいえば、掛け算から割り算への跳躍。
不明なものへ飛び込む力。
当然のごとく、うまくなんてまとめられないですが(もちろん、まとめる気なんてないですが)、対話することの恐怖から議論に逃げ込んでしまうのではなくて、ただ単に対話することから始めてもいいのじゃないか、そんなことを思ったわけです。
それよりもなによりも、Starさんの記事を紹介したかっただけなのかも知れないケド。
誰かに繋ぎたかったのですヨ。
今は「叫ぶ」しか方法がないとしても、いつか叫ばなくても話ができて話を聞いてくれるヨノナカにしたい。
萎縮して生きるのではなく、元気に生きたい。
みんな、そう思ってないですか?
あきらめたらそこで試合終了ですよ。 by 安西せんせい
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