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ハレとケ [いま、ここ、わたし]

最近、よくハレとケについて考えている。

きっかけは、今の仕事について収入が激減したことで日々の生活が質素になったこと。

【2021/05/17 家計の見直しと泥流地帯と近代化】ではこんなことを書いた。

家計の見直しをしてて、いつも思い出すのが、三浦綾子の「泥流地帯」という小説。 北海道に移り住んで、貧しい暮らしをしながら原野を開拓しているんだけど、白米すらお祝いの日に食べるもので、普段はお芋とか質素なものしか食べてない。 それでも生きていけるし、何かをやっていける。 豊かなのがいいのは当たり前かもしれないけど、そうじゃなくても人は生きてきた。 最初に読んだときから、その点がずっとひっかかってて、今の自分に引き寄せてなんとなく支えにしている。

この記事を書いた後、「普通の日ってケの日ってことだよな」と思って、たぶん、いつかどこかでハレとケについて本で読んだことがあったんだと思う。

さっき【Wikipedia ハレとケ】を読んでたら、この考え方は柳田國男が見出したものらしい。

先日、

を読んだけど、柳田國男と南方熊楠は同世代の人で交流もあったから、なんとなく縁を感じている。

柳田國男は多分読んだことないけど高校の時の恩師が勧めてくれたことがあった気がする。

★ ★ ★

ケについて考えてて思ったのは、今は日常がほとんどハレになっていて、ケがあまりないんじゃないか、ということ。

普通の日でも、お酒を飲んだりキレイな服を来たり色んな買い物をしたりすることが当たり前になっているけど、それって年に数回や人生に数回の特別な日、つまりハレの日にやることで、ケの日って、ただただ朝起きて働いて最低限のご飯を食べて寝るという刺激のない日なんじゃないか。

ハレの日は楽しくて刺激的で特別。

ケの日は質素でなにもなくて普通。

収入が減ってお金を自由に使えない状態になってみると、そういうハレの日っぽいことが簡単にできなくて、どんどん毎日がケの日になってくる。日々が最低限の生活になる。

そうなって感じてるのが、毎日がハレの日っぽかったのって、自分にとっては幸せではなかったんじゃないか、ということ。

刺激的で特別な毎日じゃなくて、なにもないただ生きるだけの毎日はどこか安心を感じる。

そして、その毎日があってはじめて、たまに遠出をして友達にあって散歩したり、お酒を飲んだりすることのありがたさが感じられて来ている。

毎日は退屈なのが当たり前。

いままでそんなこと考えたことなかったけど、それが今の自分には合っているみたいだ。

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