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今日は亡き父の誕生日 [いま、ここ、わたし]

54歳になる直前の5月28日に亡くなった父。

生きていたら今年81歳になる。

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20歳から東京で一人暮らしを始めて、一度だけ父が東京の家を見に来たことがある。

いとこの結婚式が東京であって、それに来たついでだった。

亡くなる1、2年前だったと思う。

私は仕事があり結婚式には出られず二次会から参加したんだけど、二次会が終わったら父が「ちょっとお前の家を見たい」と言ってきた。

タクシーに二人で乗り当時住んでいた上井草のアパートまで向かったんだけど、その乗ったタクシーの運転手さんが父と同世代の北海道出身の人で、帯広で馬に乗った話やら、汽車は煙が凄かった話やら、私が聞いたことがないような思い出話をものすごく楽しそうにしてた。

家について、家に上がるのかなと思ってたら、外だけ見て満足したのか「じゃあ帰るな」と、待たせていたタクシーに乗ってさっさと帰っていったっけ。

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父はよく「お前の好きなように生きろ」と言っていた。

進学や就職で口を出してくることはなかった。

コンピューターの専門学校を卒業する時、親戚の病院でコンピューター技師として働かないか、という話があったけど、「とりあえず話があったから伝えるけど、親族会社は大変だし断っていいからな」と言ってくれて、ゲームの仕事をすることに決めていた自分は安心して断ることができた。

父は兄弟が経営する水産加工の会社に勤めていて、兄弟の中ではかなり年下だったこともあり、なんでもやらされて大変そうだった。

そんなこともあったからか、父は自分の兄弟たちよりも、母の兄弟たちといる方が楽しそうで、毎年夏に母の実家のある旭川に行っては、カニを振る舞いながら、ものすごく楽しそうにしてたっけ。

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父は子煩悩で子どもたちをとても大切にしていた。

父は自分が親や兄に殴られて育ったので子供には絶対に手をあげないと決めていて、口で叱られたりしたことはあっても、軽くでも叩かれたりしたことはなかった。それは母に対しても同じだった。

戦後で食べ物がない時代に育ったので、子どもたちに同じ思いをさせたくなくて、とにかく食べ物はいつも家にあるように母と話してもいた。

父は一人娘である妹を溺愛していたし、兄は兄で父とそっくりな見た目で恰幅がよく、これぞ親子という感じがしていたけど、私は細身で父には似ておらず、「もしかして別な人がお父さんなのでは」などと思ったりもしてた。

同性愛者であることも、どこか父と距離を取らせていたと思うし、高校になったころぐらいからは、あまり相談らしい相談をしたこともない。

「好きに生きろ」という言葉はありがたかったなと今なら思うけど、その当時は自分に興味を持たれてないような感じもして、寂しく思ったりもしていた。

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小学6年生の時、NHKでやっていた「マイコン入門」を見て衝撃を受け、その当時高価だったパソコンを父にねだった。

今思うと父親の月給と同じかそれ以上の値段だったと思う。

「一年間、パソコンショップに通って飽きずに続けられたら買ってやる」と言われ、パソコン雑誌を片手に一年間パソコンショップに通い詰め、ちゃんと約束通りパソコンを買ってくれた。

実は買い与えていいか迷っていた父は、友達から「これからはコンピューターの時代だから買ってあげるといい」と言われ買うことを決めたと父が死んだ後で母から聞いた。

私が通ったコンピューターの専門学校の学費も、兄が一歳違いで同じく専門学校に通っていたこともあってお金の工面が大変で、父の兄弟に借金をしていたらしい。

父がそうやって私がコンピューターを学ぶことを支えてくれたお陰で、自分はゲーム開発の仕事をすることができた。

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小学校での運動会の場所取りや、トノサマバッタを捕まえに行ったり、港まつりで花火を見に行ったり、社会科見学で水産加工の工場の冷凍庫に入れてくれたり。

剣道を習わせてくれたり、変に勉強しろしろ言わなかったり、家でトドみたいに寝っ転がって相撲の中継を見たり、出たばかりのビデオデッキを買ってきたり、健康にいいからとリンゴ酢を買ってきたけど全然飲まなくて私と母で飲んだり、納豆が嫌いで子どもたちが食べてるといや~な顔をしたり。

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今、父が50歳ぐらいの時に撮った証明写真を一枚持っていて、財布に入れている。

兄の一周忌で帰省し、母にカミングアウトした次の日の朝、東京に帰る前にふと目に入ってもらってきたものだ。

自分は家族を捨て、故郷を捨て、東京で一人生きてきたつもりだったけど、どんなに自分がそう思っていたとしても、育ててくれた親はいる。

父の写真を毎日みながら、やっとそのことが分かってきた。

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父さん、今生きていたら、僕になんて言ってくれる?

励ましてくれるかな。

優しくしてくれるかな。

ゆっくり話を聞いてくれるかな。

「好きなように生きろ」って、いつもどおり言ってくれるよね。

これから長い時間をかけて、好きなように生きてみるよ。

外のものに振り回されるんじゃなくて、自分の内側で大切に思うものをしっかり感じながら、色んな人と繋がりながら生きていくよ。

これからも一緒にいて見守ってね。

今まで見守ってくれていたように。

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歌詞をつくるワークショップ振り返り [いま、ここ、わたし]

石塚明由子さんというシンガーソングライターの方が主催している【歌詞をつくるワークショップ】

2019年の7月から去年の11月まで参加して全部で12種類の歌詞を書いた。

今までもいくつかは【note】にあげていたが、全部あげて振り返ってみる。

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【2019/07/11 歌詞#01 ふたり】
このワークショップは石塚明由子さんが作った曲に、参加者それぞれが歌詞をつけて、みんなの歌詞が出来たら、一つ一つその歌詞で石塚明由子さんがギターを弾きながら歌ってくれる、という流れになっている。
この歌詞は兄のことを思って書いたけど、始めて参加したワークショップということもあり、曲に合わせようとしすぎて、自分としてはぎこちない歌詞になった。

【2019/09/12 歌詞#02 燃えないゴミ】
初回にぎこちない歌詞を書いたけど、その時、ある参加者の方が書いた歌詞が曲に縛られずとても自由なもので、「ああ、そんなに自由に書いてよかったんだ」と思った。
この年の5月にこのワークショップのことを友達から聞いた時、「わあ!やりたい!これ絶対泣くやつだ!」と思ったし、最低でも1年間続けようと即決したんだけど、前回みたいに縮こまっていたら続けられないし、思い切って曲に合わせすぎず、気を使わずに好きに書いた歌詞がこの歌詞。
石塚さんはこの歌詞を見た時少しびっくりされてたけど、きっちりと歌いきってくれて、ああ、やっぱりそれでいいんだ、と、すごく楽になって、その後も続けることができた。
自分が背負ってるもの、抱えてるものを、ゴミに例えて、それが本当に必要なのか、改めて見直していこう、という気持ちを歌詞にしてる。

【2019/11/14 歌詞#03 そこからすべては】
前のパートナーに同性愛者であることを受け入れてもらったことは、自分に大きな開放感を与えてくれた。本当にありがとう。

【2020/01/09 歌詞#04 いつもずっと】
母へカミングアウトして受け入れられたことは大きな安心感に繋がり、自分が愛されてることを実感をもって分かるようになった。
この時にワークショップの参加メンバーにも同性愛者であることを伝えた。

【2020/03/12 歌詞#05 小さき種の】
ここで、育って、生きていけばいい。

【2020/04/05 歌詞#06 春の吹雪】
どんな時にも自分の感覚を信じて歩くこと。

【2020/05/05 歌詞#07 思いを歌に光を支えに】
どんなに小さいと自分が感じていたとしても、一番大切なものははっきり自分の中にある。

【2020/06/11 歌詞#08 草木はおどる】
獣の様に生きなくてもいい。ひとりで生きなくともいい。

【2020/07/07 歌詞#09 月と一緒に】
昨日の記事、【ブログ振り返り(50歳編)】でも書いたけど、母の手術の立ち会いに行けなくて泣いた時のことを歌詞にしてみたもの。

【2020//08/18 歌詞#10 いつもの夏の日】
育った場所から遠く離れても、そこで感じたあの夏は当たり前にここでも来る。

【2020/09/10 歌詞#11 ひとつの家を】
ここで生きていこう。

【2020/11/12 歌詞#12 空き缶の歌】
捨てられても、愛され大切にされたことには変わりない。

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